ここで
中古音 → 歴史的な漢字音(字音仮名遣い) → 現在の音読み
という2段階の転写を想定します。
月の読みをゲツ・ガツとするようなものが現在の音読みで、グヱツ・グヮツとするようなものが歴史的な漢字音と呼びました。この歴史的な漢字音のことは単に字音と呼ぶことにしますが、漢和辞典ごとに多少の異同があります。
この字音を表記するための仮名遣いは字音仮名遣いと言います。基本は歴史的仮名遣いと共通していますが、大和言葉の歴史的仮名遣いではありえないような音の並びもあります。
江戸時代の国学者として有名な本居宣長は字音研究にも熱心でした。江戸時代における字音研究について調べてみると、中古音の復元という研究テーマがそもそも日本の国学の副産物のようにすら思えてきます。その話はいずれ別の記事でまとめたいと思います。
戦前のいわゆる旧字旧仮名遣いで表記が行われていた段階の日本では、漢字に読み仮名を振るときに字音仮名遣いを用いていました。
戦後、漢字の音読みは表音主義になりました。
いっぽう、大和言葉の語彙については「ぢ(ジ)、づ(ズ)、は(ワ)、を(オ)」など、実際の発音の区別に必要な書き分け以上の表義的な書き分けが残っています。
さて、字音仮名遣いから現在の表音主義的仮名遣いへの変化にまつわる問題をまとめてみたいと思います。
四つ仮名
ジとヂ、ズとヅの4文字を四つ仮名と言います。ヘボン式ローマ字では区別しませんが訓令式などの日本式系では区別するときがありますよね。
ヘボン式系 ジ ji、ヂ ji、ズ zu、ヅ zu
訓令式系 ジ zi、ヂ di、ズ zu、ヅ du
これは、日本語の音読みから中古音の声母を推測するときに混乱を招きます。
たとえば「地」「図」の2字は字音仮名遣いでは「地(チ・ヂ)」「図(ト・ズ)」(漢音・呉音)ですが、現在は「地図(チズ)」「地震(ジシン)」のように読み仮名をふります。ちなみに現在の普通では地図と地震はdìtú、dìzhènと発音しますが、字音仮名遣いから訓令式系のローマ字にしたtidu、disinのほうがヘボン式系のchizu、jishinよりも似ていますよね。
以前の記事で三十六字母と日本漢字音の対応に触れたときは四つ仮名を区別するものを想定しています。
合拗音の消失
昔は拗音には2種類あると考えられていたそうです。
ヤ行のものを開拗音、ワ行のものを合拗音などと呼ぶようですが、拗音でない音を直音と呼ぶそうです。
合拗音は現在では失われました。ワ行がそもそもワ一音のみをのこしてヰヱヲはア行のイエオと合流してしまいました。
ともかく字音仮名遣いの体系では以下のような合拗音と直音の対立がありました。カッコ内に字音仮名遣いに表記に添えて現在の普通話の発音も示します。
果(クヮ guǒ)、元(グヱン yuán)、鬼(クヰ guǐ)
歌(カ gē)、言(ゲン yán)、機(キ jī)ちなみに直拗音も漢字の中古音の影響で日本語に定着したもので、それ以前の日本語になかったものだとする説があるそうです。ちなみに「狂(クヰャゥ kuáng)」のように開合どちらの拗音も備えていた字もあります。
韻尾子音-ng
伝統的な字音仮名遣とは異なる問題なので本当は今回の記事で扱うべきではないのですが、ついでに韻尾子音-ngに由来するウ・イを小書きでゥ・ィと書く方法についても少し触れたいと思います。ほとんどの漢和辞典では使われていないと思うのですが、ウィクショナリーの漢字項目などでよく見かけるので私も採用することにします。
これによって以下のような表記上の区別ができるようになります。普通話の発音も示します。
豆(トウ dòu)、西(セイ xī)
東(トゥ dōng)、星(セィ xīng)
ハ行転呼
奈良時代のハヒフヘホは現在のパピプペポのような、子音pをともなうものだったという説があります。ポルトガル式ローマ字ではハ行子音は一律にfで表されていることから16~17世紀のハヒフヘホはファフィフフェフォのような音だったのではないかと言われているようです。
語頭のハ行がハ行としての表記を保ったまま音が変化していったのに対し、語中・語末のハ行はワ行やア行に分かれていきました。現代仮名遣いで助詞の「は」をワと読む現象にのみ、その痕跡が残っています。「川(かは)→(かわ)」「言ふ→言う」のように表音主義的に改められました。
中古音の唇音の声母が字音仮名遣いでハ行に転写されたものは現在でもそのまま残っているのですが、入声韻尾-p由来の語末のフはウに変化しました。これにこの次に述べる二重母音の長音化の現象が合わさることで
合(ガフ hap6)→(ゴウ)
葉(エフ jip6)→(ヨウ)
のような変化が字音仮名遣いと現在の音読み表記の間で起こっています。上の例では参考までに広東語での辞書上の発音も字音仮名遣いに添えて示しました。
ちなみに三十六字母のhが日本漢字音のカ行で反映されているのは、当時のハ行のpよりはカ行のkのほうがhに近いと見做されたからだろうと言われているそうです。
余談ですが、このように日本語では唇で発音するpが喉で発音するhに変化したのとは逆に、広東語では喉で発音していたhやkが唇で発音するfに変化した場合があります。普通話・広東語の順で示すと「花(huā / faa1)」「課(kè / fo3)」などの例があり、この面に関しては広東語よりも普通話の方が古い発音の特徴を残しています。
二重母音の長音化
歴史的仮名遣いのアウ、イウ、エウはオー、ユー、ヨーと発音するように現在の国語教育では教えていますが、この規則は字音仮名遣いにも適用されます。そして表音主義的に表記がオウ、ユウ、ヨウと改められてしまいました。
構(コウ gòu)
高(カウ gāo)
のような対立が字音仮名遣いにはあったわけです。字音仮名遣いに添えて示したのは普通話での発音です。
エイも読みはほぼエーですが綴りは字音仮名遣いから変わっていません。
一説によると古代の日本語には長母音がなかったそうで、二重母音の長母音化は中世に頻繁に起こったらしいです。
撥音のム
ンと読む場合のムと言うものが歴史的仮名遣いにはありますが、漢字音の場合は韻尾子音-m由来のムが現在ではンと表記されます。
実は現在の普通話でも中古音の-mと-nは合流していますが、広東語では区別が残っています。字音仮名遣いで区別された例を一つ挙げます。括弧内には字音仮名遣い、普通話、広東語の順で示します。
心(シム xīn / sam1)
新(シン xīn / san1)
促音のッ
現在では小書きのッで促音を表しますが、字音仮名遣いではそうではありませんでした。例えば「学校」という単語でもガクカウと字音通りにふりがなをふっていたそうです。
さて、字音仮名遣いと現在の漢字の音読みの間で起きた問題の主なものは以上の通りです。
このほかにも中古音が字音仮名遣いに転写される時点で起きた問題や、慣用音や国字国訓、同音の漢字による書きかえなど、日本語表記における漢字使用についてはたくさんの問題がありますが、とりあえず触れないでおきます。
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