なるべく現在の日本語の漢字の音読みと、現在の普通話の字音から中古音に遡っていくようなアプローチでこのブログ全体を構成したかったのですが、日本漢字音の韻母については例外としましょう。
日本語の中で歴史的に起こった音韻変化や現在の日本語の書記体系が抱えている諸問題についてはいずれまた別の記事でまとめたいと思うのですが、今回あつかう日本漢字音というのは歴史的仮名遣いのような、いわゆる字音仮名遣いで書かれるものです。
さて、中古音の韻母に関しては十六摂という分類方法があります。
ウィキペディアへのリンクを仕込んでおきましたが、これはすべての韻母を十六種類の摂という単位に分けるものです。
この考え方では主母音の種類で内転と外転の二つに分け、韻尾の種類で7種類に分けます。
主母音については、日本語の母音とはおおむね
内転:オ、ウ、イ
外転:ア、エ
で対応します。外転の一部はオに反映されます。
ただしこれはあくまで歴史的な字音仮名遣いにおいての場合です。
例えば「葉」という字の音読みは現在ではヨウですが、字音仮名遣いではエフです。
このように日本語のなかの音韻変化によって、外転から内転に変化した字は多いのですよね。
面白いことに中国語の方でも、現在の普通話に到るまでに外転から内転に変化した字がたくさんあります。この辺の話はまた後日。
韻尾は陰声韻、陽声韻、入声韻の3種類に分けられます。
陰声韻はゼロ韻尾-øと母音韻尾-i, -uの3種類からなります。
陽声韻は4種類の鼻音韻尾からなるのですが、これを私は-m, -n, -ng, -ngwと表そうと思います。
入声韻の説明の前に声調の話をしなければならないのですが、中古音には平声、上声、去声、入声の四声がありました。現在の普通話の第一声から第四声も四声と呼ばれていますが、内容が違います。
中古音の四声を二分する考え方に平仄によるものと舒促によるものとがあります。
平仄とは
平声:平声
仄声:上声、去声、入声
のように二分するもので、漢詩の規則に関して非常に重要なものです。
一方、舒促にわけると
舒声:平声、上声、去声
促声:入声
となります。
日本漢字音には舒促の対立ははっきり反映されています。
英字で-nと-tのように書いてしまうと別の音素に見えますが、伝統的な音韻学では同じ音素の声調違いのものとして考えられていました。
入声韻の閉鎖音韻尾-p, -t, -k, -kwは陽声韻の-m, -n, -ng, -ngwに対応します。
あれ、2種類の主母音と7種類の韻尾で分けるなら2×7で14の摂として説明できるんじゃないの?
私もそう思ったんですが、外転の摂の一部には主母音の種類でさらに細かく分類しているところが2個所あり、十六摂が成り立っています。
十六摂を韻尾ごとに分ける説明の仕方には文献によって異同がありますので、私が示すものはその一例です。
十六摂はそれぞれの摂に属する字を使って表すわけなんですが、現代日本で言語生活を送る我々には馴染みのない字や音読みが思い浮かびにくいものも含まれています。
そこで私は、十六摂を以下のような記号で表すことを提案します。
通摂:{ONGW} {OKW}
江摂:{ANGW} {AKW}
止摂:{I}
遇摂:{O}
蟹摂:{AI}
臻摂:{ON}
山摂:{AN}
效摂:{AU}
果摂:{A}
仮摂:{AE}
宕摂:{ANG} {AK}
梗摂:{AENG} {AEK}
曾摂:{ONG} {OK}
流摂:{OU}
深摂:{IM} {IP}
咸摂:{AM} {AP}
こいつを表1-表3にまとめてみます。あくまで基本的な対応ですので例外はあります。
表1.陰声韻の摂.
-ø |
-i
-イ
|
-u
-ウ
|
|
内転
オ,ウ,イ
|
{O} | {I} | {OU} |
外転
ア,エ
|
{A, AE} | {AI} | {AU} |
表2.陽声韻の摂.
-m
-ム
|
-n
-ン
|
-ng
-ゥ・ィ
|
-ngw
-ゥ
|
|
内転
オ,ウ,イ
|
{IM} | {ON} | {ONG} | {ONGW} |
外転
ア,エ
|
{AM} | {AN} | {ANG, AENG} | {ANGW} |
表3.入声韻の摂.
-p
-フ
|
-t
-ツ・チ
|
-k
-ク・キ
|
-kw
-ク
|
|
内転
オ,ウ,イ
|
{IP} | {OT} | {OK} | {OKW} |
外転
ア,エ
|
{AP} | {AT} | {AK, AEK} | {AKW} |
ここから雑談です。
現在の中国語の韻尾子音-ngのもとになった中古音の韻尾子音には二種類ありました。わたしはそれをここで-ngと-ngwのように書き分けることにしました。これらはその後ほとんどの漢字文化圏で合流していきますが、ベトナム語では一部に区別が残っています。クオック・グー(国語)と呼ばれるラテン文字による現在のベトナム語の正書法では-nhと-ngという綴りの区別があります。
ただしベトナム語の場合も上の表2で示した別れ方とは異なります。これらの韻尾子音のベトナム漢字音との対応は以下の通りです。
通摂{ONGW}、江摂{ANGW}、宕摂{ANG}、曾摂{ONG} → -ng
梗摂{AENG} → -nh
入声の場合も同様に
通摂{OKW}、江摂{AKW}、宕摂{AK}、曾摂{OK} → -c
梗摂{AEK} → -ch
と対応しています。
ベトナム語のラテン文字表記はフランス人の宣教師によって考案され、フランスによる植民地支配を経て確立されたため「フランス人からの贈り物」などと説明されることもありますが、正体はポルトガル語式のアルファベットをもとにしたものです。フランス語式のアルファベットを元にしたものだと誤解してはいけません。
考案した宣教師は出身地こそフランスであるもののイエズス会士であり、ベトナム語をラテン語およびポルトガル語で説明した辞書を編纂しています。
ベトナム語にはハノイ方言とサイゴン方言の2つの有力な方言があるのですが、クオック・グーの綴りはそのどちらとも違う、もっと古い時代の発音に基いているようで、調べてみると面白いです。
ちなみにベトナム漢字が中国中古音と直接つながっていることを明らかにしたのは三根谷徹という日本の言語学者です。その著書『中古漢語と越南漢字音(汲古書院 1993年)』は私も読んだことがありますが、なかなか感動しました。
もう一つ雑談ですけが、ラテン文字による日本語の表記方法を最初に確立したのもイエズスの人たちで、こちらもポルトガル語式のアルファベットが元になっています。簡単に紹介しているサイトとしてはこんなところを見つけました。
私は日葡辞書の影印本も一度手に取ったことがありますし、『日葡辞書提要(森田 武、清文堂出版 1993年)』という本も一読いたしましたが、自分の母語について理解が深められた経験でした。
現在のベトナム語のクオック・グーの綴りには歴史的な発音の変化の痕跡が残っているのですが、日本語のポルトガル式ローマ字がそのまま残っていたらそれに近い状況になっていたことでしょう。
雑談が長くなりましたが、今日のところはこの辺で失礼します。
0 件のコメント:
コメントを投稿